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2014年11月17日月曜日

2014年 「秋のまた会」旅行 青森(11月13日、14日)

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小学校から高校まで同窓だった旅行好き4人組の年2回、春と秋に行っている「また会旅行」。 とても穏やかな湘南の地で教育を受け、ミッションスクール故の真面目な教育理念「従順・謙遜・勤勉」の基に12年間教育を受けたのに、この4人は何故かとても個性的!! (とお互いに思っているだけで、本人は全員『自分は常識的な普通で平凡な人格』と思っている…!??) こんな4人の旅行故、毎回一泊二日にもかかわらず、中身はいつも味が濃く、ビッシリ詰まっていて、3~4日家を離れて旅をした気分になるほど、頭と体感はパンパンになって帰路に就きます。

今回の旅は、それに加えてワンちゃん(加藤史子)曰く、「冒険旅行」と命名した位、全員70歳の足弱な老婦人とは思えない破天荒の中の旅でした。だのになんだか帰路の車中では全員まだ体力充分で、ハイテンションで「実に良い旅だった!」と満足、満足の面々でした。

さて、旅の始まりはテケ様(久住多賀子)の発案で、青森県の「鶴の舞橋」を見学し、その前後に平川市の名園「盛美園」、そして宿泊は石川さゆりの歌で有名になった、強風と海鳴りの本州最北端の竜飛岬のホテル龍飛(冬季は道路が封鎖され、バスは三厩(みんまや)駅が終点でそれから先は訪れる人もまばらな竜飛集落と呼ばれる寒村で、源義経北行伝説の舞台の1つ)。

二日目は五所川原の太宰治記念館「斜陽館」と、今や世界的に有名になり、天皇陛下御即位20年の式典の時は二重橋前にパレードして披露されたりした「ねぶた」の最も巨大(高さ22m)な立佞武多を作っている館を見学する、内容的には興味の濃い旅ながら、季節が「冬」には向かない場所で、出発前の天気予報では典型的な冬型の気圧配置になり、太平洋側は晴天ですが、日本海側は気圧の谷で、しかも猛烈な低気圧の為、強風・突風(35~60m)・竜巻・落雷・暴風雪となり、事実北海道では家屋の屋根がとび、自動車のフロントガラスに突風で飛ばされた物体がガラス窓を粉々に粉砕して車内がガラスの破片で身動き出来ない映像がテレビニュースに流れました。私達の周遊する場所は、公共交通機関の乏しい場所で、レンタカーで廻らねば旅程をこなせない条件です。旅の出発をキャンセルしてはどうか、と提案しても、発案者のテケ様は生来、自動車の運転も前進あるのみ、バックと一時停車が嫌いで、その「GOGO哲学」でこれまでの人生をバラ色に染めてきた御仁故、「行ってから様子を見て決めましょう!」の鶴の一声で、私達4人は11月13日(木)8:20発はやぶさ5号で東京駅を出発しました。太平洋側を走っている間は天気も明るく穏やかで、最新のはやぶさの車両の快適さに4人とも気分はすっかり旅行の楽しさに包まれました。



2011年3月5日から運用開始された新青森までの東北新幹線の主力車両で
今までの「はやて」「やまびこ」の275km/hを上回り、国内最速となる320km/hで
座席も広く、トイレは最新の航空機の上級トイレより広く快適!ウォシュレットは勿論の事
着替えも出来る折りたたみのパレットから全ての装備が付いている。

おしゃべりを楽しんでいる間にあっと言う間に11:19新青森到着。悲劇は早速に起こりました。前もって昼食の場所に決めていた新幹線駅構内にあるお寿司屋「魚っ喰いの田(でん)」が今日に限り「貸し切り」だったのです。頭の中は「大間のまぐろ」を食べるモードになっていたのでガッカリ、構内には他に焼きそば屋とラーメン屋しかありません。席が空いていたのが「焼きそば屋」だったので焼きそば屋に座ったら、スタッフのお嬢さんが「ここは焼きそばしかありませんが大丈夫ですか?」と不思議な言葉を発するのです。心配になりラーメン屋を覗いたら、1卓空いていたので、スタッフの好意を受け入れてラーメン屋に移りました。

新幹線駅旬味館内のラーメン屋「めえ」で食べた「ほたてラーメン」と
十三湖名物の「しじみラーメン」。しかし内容はしょっぱくて高くて(1280円!)NG。

駅に着いた途端に霙(みぞれ)交じりの雨と予想通りの寒さに、青森という土地柄を感じました。新幹線の中で読んだある作家の表現の中に、「青森に住んでいる人はその土地に縛られている囚人か、青森をこよなく愛している人か、その2種類しか居ない」。常に北の海からふいてくる強風に身を縮めて耐えている。穀倉地帯にもかかわらず、冬場は水田を囲んで防雪棚が張り巡らされており、それが無ければブリザードが酷くて一寸先も見えず、雪は常に舞っているけど着雪しない。棚が無ければ何もかも吹き飛ばされて原野のみ…。建物も2階建てが精々で高層物を見かけません。

駅近くのオリックス・レンタカーで手続きをして早速出発。運転はテケ様。GO!GO!のテケ様です。ナビゲーターがワンちゃんだから何とかなるでしょう。

天気と道路事情に不安があるので、地図と首っ引きで日没までにホテルに着きたい、と予定を短縮して盛美園を抜いて鶴の舞橋に直行しようかとも考えましたが、平川市の盛美園も行く事にしました。海沿いの道は北の海からの強風が自動車をあおると危ないので、青森の中程を通る道を選びましたが、カーナビに時々×印が付いて居て、現在通行止めとも取れる不可解な表示もあり、結果的にはテケ様の言うとおり、「案ずるより産むが易し」だったのですが、軌道に乗るまでは命知らずの冒険家の様でした。

無事 平川市の盛美園に到着。青森駅を12:40に出発し13:25到着ですから
45分の道程でした。
盛美園は国の名勝で、明治34年、平川の豪農で資産家の清藤盛美が武学流の造園師 小幡亭樹宗匠を招き、9年の歳月をかけて完成させた、武学流庭園の最高峰と言われる庭園です。武学流は江戸時代の初期に都落ちして来た公卿らが仏教文化と地元に根付いた古神道文化を習合させて京風の庭を造る流派で、明治時代の作庭としては京都の無鄰庵に匹敵する傑作に数えられています。

本来、津軽(青森)の旅は、岩木山に未だ雪が残る青葉の早春に旅するのがベストタイミングなのですが、私達はたまたま日本海に低気圧が居座る冬に来てしまいましたが、しかし予期せぬ思いもしました。




それは見事な紅葉の大木が、まさに見頃の美しい錦を織り成していました。
今年は紅葉の名所に行かなかったので「紅葉」は諦めていましたが
思いがけない見事な紅葉を見ることが出来ました!

庭園の中には和洋折衷の盛美館が建っていて、1階は純和風
2階は八角形のドーム屋根の突き出た洋風に仕上がっています。

春に来るとこんな感じ。

1階には庭園を見渡せる広縁の建物に宮大工の技が光ります。

床の間

書院

欄間の木組みが素晴らしいでした。

朱の漆も鮮やか。これは何でしょう?

手洗いも蝋色の美しい漆の仕上げでした。

2回の洋館に導かれる壁は、大理石より高いと言われるスタッコで出来ていました。

盛美園の片隅に漆の最高の技を結集した仏間がありました。乾燥と光から作品を守る為に、30分にたった3分間だけ公開しているのに間に合い拝見する事ができました。




春に来るとこんな感じ。



秋に来るとこんな感じ。




大して期待していなかった平川市の盛美園に一同大満足で、次の一番期待している「鶴の舞橋」に向かいました。盛美園から50分程の工程です。

岩木山に冠雪が残る、早春に訪れるとこんな素晴らしい景観になるはずの「鶴の舞橋」。

しかし私達が鶴の舞橋に到着した時は、この旅の中で最も悲惨な気象条件のまっただ中。
強風とパラパラ音を立てて降る霰(あられ)の為に、鼻が引きちぎられそうなほど寒く、
ガスがかかり周りの景色は何も見えない状態で、開いた傘は一瞬にしてバリバリ音を立てて骨が折れ、
使い物にならなくなりました。



それでも冬ならではの飛来した鶴の枯れた芦の草むらに餌をついばむ姿を見る事が出来、
本来の鶴の舞橋を見る事が出来ました。

鶴の舞橋は1660年に津軽藩主によって灌漑用水源として築造され、実際に見るとその溜池の広さに驚きます。そして平成6年7月8日、津軽特産の津軽ひば、樹齢150年以上を700本も使って、全長300mの三連の太鼓橋が架けられ、日本一長い木の橋は岩木山の雄大な山影を湖面に美しく映す津軽冨士見湖として写真家の被写体として愛されている場所となりました。

橋を渡ると「長生き出来る」と言われていますが、強風と霰(あられ)の降りしきる厳寒の中、橋を渡り終えたのは「前進あるのみ」のテケ様と範子ちゃんだけ。私とワンちゃんは渡り終えなかったので短命、いえいえ、「美人薄命」と言うことに致しましょう。

鶴の舞橋の事務所で竜飛岬までの道程を尋ねましたが、「青森弁」が通じなくて、15:00に鶴の舞橋を不安を残しながら出発し、手探りのドライブになりましたが、途中「竜飛方面」という標識を見つけて嬉しく、バイパスの様なハイウェイにのり、一路ホテル竜飛を目指しました。

途中ホテルに電話をすると、非常に風が強いから気を付けていらして下さい、と言われましたが、気を付ける術がわかりません。しかし大したトラブルもなく、全く人が住んでいるとは思えない海沿いの漁村を通り、無事竜飛岬に着きましたが、周囲はすっかり暗い闇の中で、なるほど、打ち付ける波の音と風の音しか聞こえませんでした。

ホテルも大きい割りには人気が無いので、聞いたら予約はほとんどキャンセルされて、食堂で会った宿泊客は私達を入れて4組でした。

ホテル竜飛の夕食。あわびとほたての陶板焼きは柔らかく美味でした。
生ウニも新鮮で美味でした。総じて夕食も朝食も美味でした。

翌日朝、部屋の窓から見た岬からの津軽海峡の眺め。
「晴れ女」のワンちゃんのおかげでしょうか? 青空ものぞきます。

さすがに波の荒さは評判通りですね。



ホテルの真下を青函トンネルが走っていて、下を電車が通過すると七色の電飾が通過を知らせます。

津軽国定公園「風の岬」と碑が建っています。見よ!この青色!
ホテルからは対岸の北海道の松前が見えました。

岬からの坂道を下りてくると、三厩(みんまや)のバスの終点駅近くに来ます。
辺りはイカ釣り漁船が沢山停泊している漁村です。
ここも明日で「通行止め」になり、冬は人が入れなくなるところでしたから、私達は本当に最後の最後の客でした。

突然テケ様の「止まれ!」という鋭い一声があり、急停車すると右手に「とし子の店」がありました。

店先にまるでバレエダンサーの様な透き通るイカの開きが端正に干されています。
店内から写した私達のレンタカー。

すぐさま飛び出したテケ様が店主のとし子さんに交渉しています。

この店で無い時もある、という名物の塩辛とイカ焼きを買いました。
ネットで見ると大変有名な店の様で、「ここのイカ焼きを食べずして津軽を語る無かれ」なんだそうです。


三厩(みんまや)駅長大絶賛のイカ焼きは柔らかく、香ばしく、絶品でしたね!
減塩をドクターから厳しく言われている私は塩辛を買えなくて、
優しい範子ちゃんに一口食べさせてもらったらその美味な事!!
2~3日ならして食べる様言われましたが、一同即日家に持ち帰り食べた由!

イカ釣り漁船のランプまで美しい。

その有名な「とし子の店」の前でポーズを取る私。

次に向かう金木の太宰治記念館「斜陽館」までは70km以上あるので、途中りんご園を捜しながら走っていると、一軒のコンビニがありました。その店主に近くに中泊町特産物直売所「ピュア」があると聞き、途中の道の駅はもう冬支度で閉店でしたから、そんな場所を探していたので、嬉しく車を走らせました。

もう雪をかぶる外ヶ浜近辺。明日から通行止めになる道路もあります。
寒さと強風で雪は積もりません。

「二つめの信号」と言われてもずっと田んぼの道を走るのでかなり距離はありました。
これが「ピュア」です。

「ピュア」の個性は「道の駅」と違い、裏手に最新加工施設を持っていて、単に野菜や果物、加工品だけでなく、
加工品が出来たてで惣菜の種類が豊富、手作りの漬け物、寿司、餅菓子等、豊富で安い!

大根もリンゴも山菜も安い!安い!

私は干し柿になる柿を見つけて買いました。

他の3人は段ボールをもらって、スチューベンというぶどうやフレッシュの菊の花、野菜、惣菜、みそ等
箱一杯買って留守を待つ家族に沢山のお土産を買い、満足満足。

娘の英里が早速その日に皮を剥いて干し柿を作りましたが、干し柿用の柿は紐をかけられるよう、一個一個T字の枝をヘタに残してあるのに感心しました。カラスを心配しながら、洗濯機用の網目袋を裁断してネットにかけて干しています。

五所川原にやっと着いて、「斜陽館」見学前にランチにしました。

この土地の名物「貝焼き」定職を食べました。
大きな帆立貝の殻に小口に切った貝とヒモを入れ、溶き卵と味噌で味を付けた料理でしたが、ふっくらしてとても美味。
これに惣菜2種と漬け物とワカメがたっぷり入った味噌汁、コーヒー付きで800円!
その美味しさと安さに一同ビックリ。
昨日食べたしじみラーメンはしょっぱくてスープもあまり貝の味がしなくて1280円でしたから。
しかも、帰る時、何気なく料理している魚の名前を聞いただけなのに、「子持ちはたはた」だそうで、初めて見ると言ったら、唐揚げと塩焼きを1人に一尾ずつ試食させてくれて大感激!出来たてですごく美味でした! 信じられない大盤振る舞いでした。

斜陽館は太宰治の生家ですが、その立派さに驚きました。

それもそのはず、この建物は現在金木町に買い取られ、土蔵や敷地周辺の長大な煉瓦塀と言った屋敷の全体が津軽地方の町屋の間取りを踏襲し、内部には洋風の旧銀行店舗部分や階段室、応接間等があり、近代和風建築や大地主の屋敷構えの貴重な遺構となっており、国の重要文化財に指定されている建物です。

青森特産のひばをふんだんに使用し、階下11室278坪、2階8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園をあわせて宅地約680坪の規模を有する大地主の豪邸。

台所から見た手前が母と太宰、使用人達の食事をした茶の間、一段上がった奥が主人と跡取りだけが上がれる茶の間、そして右は2階への急な階段と太宰が幼少期を過ごした母の妹(叔母)の部屋。ここで太宰は家族の中の階級制度をイヤと言うほど味あわされた。

当主(父は衆議院議員であった津島源右衛門。青森で4番目の高額納税者で、銀行と小作人を多数抱える豪農だった)は連日ここで土地の名士として宴会をした。奥のガラス張りは津島家の立派すぎる仏壇。

客間の四方にある欄間の彫刻。この欄間の為に天井高が普通の家より高く立派に作られていた。



ふすま絵も四季が描かれた立派な物。

銀行業務をしていた跡を残す金庫。

2階に通じるヒバで作られた立派な階段。

2階の応接間。カーテンが立派。

天井貼りの布とシャンデリアも立派。

ここで商談したが、低くて巾の広い椅子は和服の客が正座して座る椅子。

太宰の母の部屋。父 源右衛門は養子の為、母の部屋のほうが立派。

斜陽館を15:00に出て、最後の訪問先の立佞武多館には20分程のドライブで着きました。
何しろ高さ22mの巨大佞武多を収納する建物ですから、普通のビルの7階建ての高さがあります。

エレベーターで一気に4階まで上がり、そこでスクリーンに映されるビデオで説明を聞きます。

ここからゆるいスロープが1階まで螺旋状に巡らされ、そこを歩くうちに「佞武多」の歴史や製作過程がわかる仕組みになっています。また、このスロープは各階の高さで勝鬨橋のように跳ね上がって22mのねぶた専用の出入り口に進めるように出来ています。

説明展示の最後に飾られている、ねぷたを作るのを練習する参加者が作成した簡単なねぷた。

一年に一基作られて、常時3基の佞武多がこの館に収納されています。
この3基が現在の保存されている佞武多です。





佞武多は禊ぎ祓いとして夏の行事に行われる燈籠の役目をしていて、昔は豪商が競って作らせた為この大きさになったが、電線が市街地に張り巡らされるようになって80年間途絶えていた。それが1993年、昔の設計図が出て来た為、市民のボランティアで復活し、現在は東京ドームや幕張メッセにも貸し出し展示されるようになり、海外へも分解して展示されるようになった。

約一時間で立佞武多館の見学を済ませて、予定通り17:10にオリックス・レンタカーに車を返し、新青森駅の前日食べられなかった「魚っ喰いの田」で念願の大間のまぐろの握りを食べ、忙しいながらも、寒いながらも、やっぱり常日頃経験出来ない場所を見、食べ、買い物をして満足一杯で18:24発のはやぶさ13号で帰途に就きました。車内でピュアで求めた草餅とブルーベリー餅を頬張りながら、その美味しさに「もう少し買えば良かった」と欲張りな、疲れを知らない私達でした。

毎日食べたから今日でおしまい…。と嘆くワンちゃんからの未練タラタラの塩辛の写真。


いつもながら冷静な範子ちゃんが旅の記録を作ってくれました。



発案者のテケ様、下調べと記録係の範子ちゃん、ナビゲーターのワンちゃん、皆様有難うございました。二度と出来ない齢70の冒険旅行でした。