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2015年12月17日木曜日

秋のまた会旅行 2015 「浅田屋に泊まる金沢」

<写真はクリックで大きくなります。>


湘南白百合の小学校から高校まで机を並べた竹馬の友4人で結成した春と秋の旅行会「また会」の今年の秋の旅行は金沢。北陸新幹線開業で京都に次ぐ今、大変ホットな観光スポットとなっています。今回の幹事はテケ(久住多賀子)。40年前に親子で金沢を訪れ、泊まった浅田屋旅館(創業慶応3年(1867年)の古都金沢に相応しい数寄屋造りの老舗料亭旅館)の印象が鮮明で、もう一度あそこに泊まりたい!との思いが、この度の金沢人気でよみがえりました。いざ出発という時に、ワンちゃん(加藤史子)に突然の一身上の出来事が降りかかり、参加出来なくなったので今回は3人のメンバーで出発となりました。

11月19日(木) 北陸新幹線「かがやき」号で東京駅を8:36出発。朝が早いので朝食は車中で。メニューはワンちゃんと言えば思い出す、スチューベンぶどうとラ・フランスのミックスジュースと紀伊国屋のドイツライ麦パンのサンドイッチを私が用意。軽く済ませてランチを金沢の近江町市場のお鮨屋さんで取るつもり。車内で1泊2日の行動計画をガイドブックと地図を広げて、3人で頭を寄せ合って検討している間のまたたく間に金沢駅に着きました。ワンちゃんが居ないと車中の写真は0。お弁当の写真も0。名カメラマンワンちゃん不在は大きい!

金沢駅着 11:10

新幹線開業は随分前から検討され、準備されていたのでその間駅前はきれいに再開発されたようです。

金沢駅に到着。駅前必見スポットの「もてなしドーム『鼓門』」前で。

もてなしドーム(文字看板)

もてなしドーム 全景

もてなしドーム 拡大図。
両脇の木を束ねて作られた柱がよれているのは鼓のかけひものよじれの再現なのでしょう。
駅からタクシーワンメーターで浅田屋へ。

1867年創業の浅田屋の前で。

さぁ~、どんな旅館でしょう。
門から玄関までは坪庭のような露地を通って玄関に行きます。昔ながらの格式を感じさせます。


浅田屋のお玄関。

お玄関先で記念撮影。

玄関の中には釣鐘型をしたつくばいがありました。
江戸時代の旅館の上がり口には手を洗ったり足を洗ったりする水がまず旅人が腰を下ろすには必要だったのでしょう。

チェックインまで荷物を預けて浅田屋の目の前の近江町市場場内で昼食を取った後、続けて金沢城(黒門入口より)を見学し、その隣の21世紀美術館と兼六園を見学して夕方18:00迄に浅田屋に戻る予定。

金沢は江戸時代、800万石の江戸幕府を除いて大名中最大の102万5千石を領した加賀藩の城下町として栄え、人口規模では江戸、大坂、京都に次ぎ、名古屋と並ぶ大都市でした。第二次世界大戦中、空襲を受けなかった事から、市街地に歴史的な風情が今なお沢山残っています。
金沢という地名は、昔、金沢市郊外の山科の地で、芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたら、砂金が出た為、「金洗いの沢」と呼ばれた伝説によるもので、その前は前田利家が入城した頃は尾山(二つの川、犀川と浅野川に挟まれた台地という意味)と呼ばれていました。金沢城は創建当時は尾山城。「金洗いの沢」は兼六園の金沢神社の隣にあり、現在は「金沢霊沢」と呼ばれています。

さて、近江町市場に入ると、獲れたての今が旬の越前ガニや鮮魚がズラリ沢山並んで行きかう人も多くて活況を呈していました。


今が旬の越前ガニが揚がったばかりで市場も活気が満ちている。

その場で牡蠣を蒸したり生のままでも食べられる、まるでオイスターバーの様な店も。

テケが早速牡蠣を食べる。

ウニの生を食べさせる店も。範子ちゃんも食べる。

私も牡蠣を食べる。 特にウニは美味!!

どの鮨屋も外に人が列を作る有様。先を急ぐ私達は、鮨屋を諦め、市場の人に美味しい店を推薦してもらうと、即答で「刺身屋」と言われました。

鮨を諦めて、市場の人に美味しい店を聞いたら「刺身屋」を教えてくれた。

「大丈夫かしら?」と不安気に見る私(清水昌子)。

店内はこんな感じ。外に行列は出来ていないけど、店内はかなりの人で混んでいる。

座敷に上がり、沢山のメニューの中から私は大好きな寒ブリのお刺身とかぶら寿司、肉ジャガを頼みました。

範子ちゃんも同じ物を頼みました。

テケはカニとイカ(両方とも今が旬)の海鮮丼。

さすが新鮮な魚貝を扱う市場の食堂。味はとびきり美味しくて大満足。
鮨を食べられなかった事など忘れる程!
そしてかぶら寿司が今までデパートで買っていたどの店のより美味しかったので
明日お土産に買うことにして、売っている店を教えてもらいました。

大満足で近江町市場を後にしてタクシーで金沢城黒門入口へ。ここから今日お目当ての去年出来た玉泉院丸庭園を目指します。

金沢旅行の目的の1つが今年3月に出来上がった金沢城内の玉泉院丸の庭園を見る事でした。「丸」はあの本丸や二の丸の「丸」なのです。江戸時代の城内の区画を指す言葉の様です。無学な私は最初「玉泉院丸庭園」と聞かされたとき、庭園が丸いのかと思いました。皆様、それが場所を指す言葉だと御存知でした?




沢山の石垣を見ながらやっと去年「再生」された玉泉院丸庭園の見える所まで来ました。
注)復元と言うのは寸分違わず正確に元のままを造る事で、少しでも元と違う場合は「再生」と言うそうです。
(ガイドさん説明)

これが玉泉院丸庭園全景です。

シャッターを押してもらった女性が偶然にもボランティアガイドの超ベテランさんで、
説明して下さると言うので案内して頂きました。

ベテランガイドさんに予期せず素晴らしい説明を受ける。


「色紙短冊石垣」の前で記念撮影。

「色紙短冊石垣」の界隈で北野武がこの金沢城をテレビで説明したそうです。
範子ちゃんはその番組を見たそうで、「あ~、ここだったんですね!」としばし感慨深気でした。

いよいよ庭園に入ります。

茶室で御抹茶を頂くことに。
この茶室は玉泉院丸には本来無かったので、ここを「再生」と表現する1つの理由です。
ここには庭を管理する役人の事務棟がありました。

その玉泉庵から眺めた庭園の全景。


ここがTVで取り上げられた、山に例えられた石垣群。
前田藩は有名な石垣職人の家系の人々を抱えていたので、日本一の石垣を造らせていました。
ガイドさんには思いがけず、金沢城の石垣の意味する所を説明して頂き、感動しました。
江戸時代の外様である加賀藩が幕府の八百万石に対して最後まで百万石を守れた理由、
それは城を堅固にする為の石垣ではなく、風雅を愛でるためと思わせたところで
代々の藩主の注意深い思慮深さを象徴していました。知らなかったわね~。

新しい茶室で清々しい気持ちに。


ここでお抹茶とお菓子を頂く


出された御菓子。出来たてでみずみずしく美味。銘は「木枯らし」。
テケは是非買いたいと思いましたが、ここの限定で求めることは出来ませんでした。
玉泉院丸庭園


さて、この玉泉院丸にある庭園は、兼六園が加賀藩の饗応の場として活用された庭に対し、藩主の内庭として活用された様で、三代目藩主前田利常が寛永11年(1634年)に作庭を始めて、5代綱紀(つなのり)、13代斉泰(なりやす)等が手を加えて明治の廃藩時までありました。形式は池泉回遊式大名庭園。金沢城と言えばそのバラエティに富んた数々の名匠によって築かれた石垣で有名ですが、実はこの石垣群はこの庭園から見る山の借景を表していたのです。

織田信長の時代、羽柴秀吉と同じ長屋に住む同僚だった初代前田利家は信長時代に能登一国を手柄として与えられましたが、豊臣の時代に賤ヶ岳の戦いに功労をなして加賀2郡、さらに続く戦いに勝利して越中西3郡を与えられ、加賀、能登、越中3国の大半を領地とし、天正13年(1585年)に加賀100万石の原型を作りました。関ヶ原の戦いでは、利家の長男利長が徳川の東軍、次男利政が豊臣の西軍に分かれて戦い、東軍が勝利し、前田藩は長男の利長が弟の領地と更に加賀西部の西軍大名の領地を与えられ3国120万石の領地を獲得しました。幕府の領地が800万石に対し、加賀藩は諸大名の中で一番の120万石を領していたので、この玉泉院丸の庭園を作庭した利常は幕府の目を恐れ、石垣をどれだけ構築しようがそれは城を固める為ではなく「風雅の為」と謀反の心の無いことを示す為に石垣は借景の山に見立て、庭の景観の一部にする為、「色紙短冊積石垣」にはV字の口から池との高低差22mを利用した滝を作り、焼け落ちた本丸を二度と築城することはありませんでした。前田家は明治の廃藩置県になる迄、二の丸を住まいとしました。

その後の前田家ですが、利常の孫、5代綱紀は学問を振興した名君と名高く、兼六園は綱紀の時代の造営、前田家は徳川将軍家との婚姻関係が強く、準親藩の地位が与えられ、松平姓と葵紋が下賜されました。加賀120万石も利常が隠居する時、次男三男に支藩したので102万5千石となり、それでも大名中最大であったので、伺候席も徳川御三家、越前松平家などの御家門が詰める大廊下であり、御三家に準ずる待遇でした。

維新後は旧藩主、前田家は明治17年(1884年)の華族令で侯爵となりました。明治4年(1871年)に廃藩置県で金沢県となりましたが、間もなく他県を合併して旧3国に広がる石川県になり、明治16年(1883年)、旧越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県の領域が確定しました。

さて、玉泉院丸の庭園は、明治期にすっかり埋め立てられ、金沢城内に新政府の軍の北陸方面部隊の司令室が置かれました。平成20年から5年間かけて発掘調査が実施され、平成25年5月に整備工事が着工され、今年3月、二の丸御殿で生活していた歴代藩主が隣の玉泉院丸に来て愛でたであろう庭園が再生されました。

その庭を管理する役人の詰め所跡に玉泉庵と銘打って茶室兼休憩所が出来ていました。そこで御抹茶と和菓子を頂き、広大な金沢城内を歩いてきた疲れを癒し、真弓口から兼六園を目指しました。

金沢城から道を隔てた兼六園へ、真弓口から入場。

兼六園の立て看板にも、空襲を受けなかった為に往年の風情がそのまま残っていることが
古都である金沢の魅力に加担している。


兼六園は岡山市の後楽園と水戸市の偕楽園と並ぶ日本三名園のひとつで、五代藩主前田綱紀が1676年、蓮池を造り、その庭を「蓮池庭」と呼んだのが始まりで、7つある門のうち蓮池門が兼六園の正門とされています。旧百間堀の底を道路とした百間堀通りを橋で渡って金沢城に入る門が石川門。13代藩主前田斉泰が現在の形に仕上げて「兼六園」と命名。

庭はやはり池泉回遊式庭園で、園内には紅葉が美しい山崎山、そしてそのそばに斉泰が生母12代藩主の奥方である真龍院(鷹司隆子)の為に造った「成巽閣(せいそんかく/旧巽御殿)」、唐崎松、根上り松、雁行橋、日本最古の動力を使わない、水位だけで噴き出る噴水 亀島、徽軫(ことじ)燈籠等々、見るべきスポットが満載です。庭内には中国人観光客が溢れていました。

兼六園 案内図





兼六園の冬の名物「雪吊り」の作業が始まっていました。
これは有名な「唐崎松」。
池に張り出した枝の長さの長いこと!

種子から植えたのに、200年以上経過したら・・・

こんなに幹の太い、枝を張った松になりました。

範子ちゃんも雪吊りの前で記念撮影。

亀島の前で。

中国からの団体客も沢山。唐崎松の前。



根上がりの松

雁行橋。

その由来。

まだまだ雪吊りの作業は雪が降り始める頃まで続きます。

敷き紅葉の美しい紅葉がよい紅葉と京都では評価されていますが、この金沢でも同じ事を感じましたね。


山崎山の美しい紅葉。


徽軫(ことじ)燈籠(有名)

その前の二枚の石を重ねた様に見える橋の前で。

兼六園から石川門口を出て再び向かいの金沢城に戻り、国指定の重要建造物(石川門、鶴丸倉庫)や、復元整備された建築学上重要な建物(菱櫓(ひしやぐら)、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋)を見に行きました。

石川門前で。この橋は明治44年に鉄筋コンクリート橋に掛け替えられたが、
藩政当時は土橋だった。

金沢城には水をたたえた堀が4つ存在したが、現在は大手堀のみで、他の3つは
明治末から大正時代にかけて埋め立てられ、道路に転用された。
百間堀は幹線道路(百万石通りの一部)に、白鳥堀は歩行者・自転車専用の白鳥路になっている。







石川門から橋爪門を渡り、五十間長屋へ。美しく復元されて、ここでは靴を脱ぎ、菱櫓や橋爪門続櫓、五十間長屋を見学。ここは金沢城跡として国の史跡に指定され、2006年~2014年に第二期復元整備事業が進められ、私達はその完成直後に金沢を訪れた事になります。

織田信長の時代に全国に広がる一向一揆を鎮圧する為、一揆の拠点だった尾山御坊(犀川と浅野川に挟まれた台地を尾山と称した)を攻め落とした功績で佐久間盛政が跡地に築城したのが始まりの金沢城ですが、佐久間は信長亡き後、争った秀吉に敗れ、この城は前田利家のものになります。天正15年(1587年)、利家が大改修して金沢城と名を改め、元禄元年(1592年)、長男利長がさらに改造しましたが、慶長7年(1602年)、天守が落雷により焼失。寛永8年(1631年)の火災以降、本丸は復元される事なく、前田家の城主としての機能は二の丸へと移され、今回見学した菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓の形態もこのころに整備されました。17世紀の終わりには二の丸は「千畳敷の御殿」と呼ばれる程壮麗でした。宝暦9年(1759年)と文化5年(1808年)の2回の大火に見舞われ、その都度再建され、明治期まで存続しました。

明治期に廃藩置県により、全国の城郭の存廃の処分で金沢城は存続となり、明治31年から第二次世界大戦が終わるまで、陸軍省の財産として第七連隊が置かれ、第九連隊司令部が置かれました。昭和24年、新設の金沢大学のキャンパスとなり、平成7年、金沢大学が移出して石川県が金沢城跡を取得し、世界遺産登録の気運が高まり、金沢城跡公園として急ピッチで金沢城復元整備計画が進められているのが現在の金沢城の様子です。

石川門から、今は芝生の広場となっている本丸を抜け、藩政の頃は本丸と二の丸をつなぐ、もっとも出入りチェックが厳しかった二の丸正門である橋爪橋を眺めて、復元修理の終わったばかりの、青空に堂々と美しい姿を広げる五十間長屋(平時は倉庫として使用、戦時は砦)とその両端にそびえる菱櫓と橋爪門続櫓を見学しました。復元前、六寸角の木材を使っていましたが、復元後は耐用年数200~250年を想定して八寸角を使っていました。又、屋根は瓦が戦時に鉄砲玉に改造出来る鉛瓦、壁には白漆喰(しろしっくい)に板瓦を施した海鼠壁(なまこかべ)。板瓦を外すと鉄砲狭間に換わり、他に沢山の石落としが施されて居ました。明治以降の木造建築物としては全国的にも大規模なもので、実に壮麗で見応えがありました。

復元されたばかりの美しい五十間長屋と
両端に優雅な姿を広げる菱櫓及び橋爪門続櫓。
その優美な櫓の姿は金沢城の特徴。
その前の芝生の広場は本丸跡。



その後、道路を隔てた隣接地にある金沢21世紀美術館へ。撮影禁止なので、写真はありませんが、特別展示の「誰が世界を翻訳するのか」が素晴らしくて、圧倒されました。各展示部屋を1つ使って壮大なスケールで現代社会の有様を象徴して見せる、まさにタイトルの通りの「誰が世界を翻訳するのか」問いかける造形美術の秀作を集めたビエンナーレ展の優秀賞受賞の作品群でした。

21世紀美術館のポスター


6時閉館ギリギリまで鑑賞して、タクシーで浅田屋旅館に帰館、今夜のお部屋はこの宿で一番面積の大きい「不老の間」。広々としたお部屋で、楽しみの料亭旅館の板前さんの匠の技が光る夕食の始まりです。

献立

まず最初は前菜。
能登なまこポン酢かけ、生雲丹と叩きいも、烏賊このわた、小茶碗蒸し 等々。

吸物
今が旬の蟹真丈に大きな丸い千枚蕪がかかり、上にうぐいす菜。
紅葉人参と柚子の彩りが美しい。

造里
平目、甘海老、鰤、車鯛昆布〆。
冬が美味しい鮮魚ばかりなのでその美味しさに感動!


香箱蟹とは、メスのズワイガニの事です。金沢でないと本当に美味しい香箱蟹は食べられないので大感激!
きれいに身をほぐして、味噌も子も盛り込んであるので、手を汚さず頂けます。

この季節しか味わえない、北陸だけの旬の味です!
大写しをもう一枚。

中皿
鱈の白子と胡麻豆腐の揚げ出し。どちらもトロける美味しさをアツアツで、外はパリッ、中はトロットロを
ちょうど加減の良い旨出しで頂きました。
加賀葱はスジが関東の葱みたいに強くないので、針葱がまた揚げ出しによく合います。

越前ガニの丸ごと蒸し!
女将さんに無理にお願いして「今でしょう!」の越前ガニを一杯蒸して頂きました。
来るときに乗ったタクシーの運転手さんに、「浅田屋さんほど美味しい蟹を出す所はありません」と言われていたので
コースには入っていなくて、「事前予約のみ」だったのを無理にやって頂きました。

やはり蟹は茹でるより蒸すが一番美味しいそうです。

御覧のように、大きな蟹ですから、上下二段で一杯です。

三人で「もう今年は蟹は十分頂いたわね!」と言えるほど堪能しました。
香りと言い、甘さと言い、プリプリ感と言い、最高でした。

焼物
その後にのど黒の天然塩焼きが出ました。
白身魚なのに、こってり油が乗って美味。

煮物
もちろん加賀名物の鴨の治部煮です。
本物の治部煮は衣に付けた粉でドロドロしているのではなく、すだれ麩や栗麩、そして小芋等を煮た自然のとろみで
さっぱりして美味。山葵をとかして頂きます。

留め椀と食事を又々写真に撮るのを忘れました。トロロが出てきましたが、加賀の山芋は野球ボール位の大きさの丸い山芋で、きめが細かく濃厚でとても美味しかったです。鰯のつみれも美味しく満足、満足。

デザートの果物は代白柿。
これも食べてから撮りましたから皮だけです。
スプーンで頂く熟れ柿でした。

夕食後、家族風呂を予約して入りました。湯船のジャグジーが心地よく、歩いた足の痛さがすっかりほぐれて、体もポカポカ、その間にふっくらとした夜具の床が延べられていて、家では夜中何回か目覚めるのに、朝は目覚ましが鳴るほど、熟睡しました。良い旅館の夜具は枕から布団まで、本当に吟味してあって素晴らしい!それなのに部屋の写真は一枚もナシ!ワンちゃん、貴女が来ないと、全く旅行記が作れません。

翌朝の朝食がまた素晴らしい。

坪庭の美しい日本間で頂きました。
私達の部屋ではないので、ギリギリまで寝ていられました。
細やかな心遣いですよね。

自分達の部屋の写真を撮らなかったので、浅田屋の江戸時代からの
老舗旅館の雰囲気を御覧下さい。

朝食はまずお茶と梅干しを頂いた後、熱々のあさりの味噌汁とおひつに入った御飯、そしてお浸しやもずく酢、トロロ、生たらこ、漬け物などがまず運ばれて来ました。

最初の御膳。

後から焼き物(私はカレイのゆうあん焼き)、揚げ出し豆腐、車麩の卵とじ
(こんなどこにでもある材料を、こよなく美味しい料理に仕立てて出してくれる、
板前さんの技に昔の人の料理の腕を垣間見ました。)等、熱いお料理を出してくれました。

デザートの水菓子。

あさりの味噌汁の汁の旨さにおかわりをお願いしてしまいました。作り置きでなく、その都度味噌を入れて作るので、約20分待ちました。何でも丁寧に作る昔の料理屋旅館の伝統を堪能しました。
テケ、良い場所を紹介してくれて有難う!


さて、2日目は朝一番で近江町市場の大口水産でワンちゃんへの土産と自分達用に「かぶら寿司」を買い、一度金沢駅に寄ってロッカーに荷物を預けて身軽になって、帰りの新幹線19:36「かがやき」までに午前中茶屋街を見学。午後、再び兼六園周辺の見所、中村記念美術館→美術の小径→成巽閣→県立伝統産業工芸館、そして長町武家屋敷跡を見学して17:30に予約してある「鮨 みつ川」で念願の金沢ならではの寿司を頂き、金沢駅に戻るという欲張りな予定です。

朝食後はさっさと仕度をして浅田屋を出ました。金沢駅のロッカーに荷物を預けてひがしの茶屋街までは順調。

天正11年(1583年)、前田利家が金沢城に入場して以来、城下町として栄えた金沢は、加賀藩が領民にも謡(うたい)を奨励し、多くの領民が謡を習い、金沢は「空から謡が降ってくる」と言われる程の町になりました。文政3年(1820年)、加賀藩の許可の下、犀川西に「にしの茶屋街」、浅野川東に「ひがしの茶屋街」が開かれ、旧来の不整形な街割りが改められて、整形な街区が形成され、今もこの地区は茶屋街創設時の面影を色濃く残している為、国の重要伝統的建造物群保存地区となっています。

有名なひがしの茶屋街の国指定重要文化財「志摩」の前で。
地区内の140の建物のうち、その2/3が伝統的建造物であり
茶屋街創設時から明治初期に建築された茶屋様式の町屋が多く残っています。

こちらは現在も営業している「懐華楼」。夜は今でも「一見さんお断り」を通して
一客一亭のお座敷を上げ、昼は一般公開しています。

再び「志摩」の前。藩政期、町屋は平屋に限られていたことから、二階建ての建物が並ぶ風景は
茶屋街独特のものでした。

中に坪庭を挟んで2階は「木虫籠(きむすこ)」と呼ばれる格子が巡らされています。

「木虫籠」と呼ばれる粋な格子。

現在の志摩の前で。
今は2階が雨戸が嵌め込まれて「木虫籠」は見えなくなっていますが、
往時は格子の2階屋が軒を連ねていました。

志摩の2階の客間。

次の間が演舞の場。
三味線や金沢芸妓が扱う独特の太鼓を囃してお客をもてなしました。

こんな客間もあります。
上流商人達の遊興の場は、一般の町屋と比べて天井も高く豪華なのが特徴。

ふすまの取っ手も豪華。七宝焼き。

釘隠しもやはり七宝焼きの豪華さ。

これは1階の台所。天井は低く、食糧を保存しておく地下の石室、井戸、竈なとがある。

又、当時の食器や芸妓の身につけた装飾品などの展示もあり、興味深い。

櫛、こうがい、三味線のばち等々。

懐華楼の立て札

懐華楼の玄関。築190年の懐華楼は金沢で一番大きな茶屋建築!

有名な真っ赤な総うるしの階段。現在も営業しているだけあって、艶やかで豪華!
天井が高いことも当時としては豪華さの象徴。

畳のへりまで赤。
大きな客間、左の廊下から坪庭も見える。

調度も豪華。

演舞の場となる次の間。
金屏風でなく、襖絵が描かれ、より豪華。

ふすまも格子の意匠が各々粋なデザイン。

こんな畳組もある。

有名な「黄金の畳の茶室」。
純金の金箔で作った水引で畳表は織られています。

見学が昼時前に終わったので、兼六園に戻る前に茶屋街でランチをする事にしました。ところがどの店も満席!やっと入れたこの地で長く営業しているような「うどん屋」に腰を落ち着け、勧められるままに大麦で作ったうどんを頼んだらこれが「大当たり」の美味しさ!断られ続けた今風の小じゃれた店より、やはり金沢は伝統ある老舗の方が当たりの様です!

金沢野菜のかき揚げ、うどん、別に頼んだ加賀芋のとろろも最高でした!!
温うどんの出し汁もレトルトでなく上品で、大根おろしを乗せてさっぱりの口当たりにすることも
小京都「金沢」らしいですね~♪

美味しいうどんのランチに元気百倍。午後からの見学に出発。最初は21世紀美術館の向かいの兼六園の裏手に当たる中村記念美術館の茶道具を見学。庭づたいに美術の小径を通り、随身坂口より再び兼六園へ。

途中少し道に迷いましたが、水音も涼しい滝を経て・・・

無事赤レンガミュージアムへ。

そしてお目当ての「成巽閣」に到着。

紅葉も美しく、天気も良く、気分はハイテンション!

成巽閣の赤門。

折しも、御殿内部で「前田家の奥方展」をやっていました。

成巽閣は江戸時代末期、文久3年(1863年)、前田家13代斉泰(なりやす)が母堂に当たる12代奥方、真龍院(鷹司隆子)の為に造営した奥方御殿です。敷地2000坪。建物は創建当時は1500坪ありました。2階建て、寄棟造り。柿(こけら)葺き。
1階は公式の対面所として、「謁見の間」を中心に御寝所としての「亀の間」、御居間の「蝶の間」等、大名家に相応しい風格と奥方らしい優雅さを備えた書院造り。
2階は打って変わって、鮮やかな群青色を用いた「群青の間」(北陸新幹線の車両の青いラインはこの群青色を取っています)や、紫色を用いた「群青書見の間」「網代の間」等、天井、壁、床の色彩や材質に意匠を凝らした数寄屋風書院造りの技法を用いています。

この御殿は鮮やかな色彩、優美に描かれた花鳥、作庭の意匠など、前田家が育んできた美術、工芸、文化の粋を総合して伝える唯一のものとなっています。
更に、期間中に特別展示された奥方達の打ち掛け、小袖、唐衣などの衣裳や嫁入り道具は、前田家の、大名の中でも一番の禄高を誇った大大名の豊かさを推察させる物でした。

又、成巽閣は12代斉廣(なりなが)が自らの隠居所として文政5年(1822年)に兼六園の中に造営した、金沢城二の丸御殿に匹敵する4千坪の壮麗な御殿であったが、次第に取り払われ、最後に残った善美な部分を巽御殿(成巽閣の前はそう呼ばれていた。ひとつには金沢城の辰巳の方角にあり、もう1つは隆子の実家が「辰巳殿」と呼ばれていた為)として文久3年(1863年)、現在の場所に居築したのが母体となっている為、「謁見の間」に象徴される様に、それは現在の二条城の謁見の間に匹敵するほどの豪華さでした。

成巽閣の中庭。

1階の御居間の前の庭。

1階の奥のお子様達の部屋のギヤマンの障子の腰張りのはめ込み。

障子の全体像。

ワンちゃんが居ないと本当に必要な写真が少ない!







成巽閣見学の後、すぐ近くの県立伝統産業館を見学し、タクシーで長町武家屋敷跡へ向かう。

これが武家屋敷跡と称される一角で、小路の両側に
前田家に仕える大小の武家の屋敷がビッシリ並んでいる。

テケは金沢に来たらこの界隈を歩いて当時の城下の様子を体感してみたかったみたいです。

私もしばし「こんな感じなのね~」と眺めています。

中でも加賀藩1200石取りの野村家は内部を見学出来たのですが
16:30までなので5分遅く到着して見学は不可。残念!

立派な野村家に掲げられたこの屋敷の由来。
野村家は十代に渡って1000石から始まり、1200石まで累進した馬廻組組頭。
各奉行職を歴任し、千有余坪の屋敷を拝領した家柄でした。

周りにはまだ沢山の観光客が居て、閉門を皆さん残念がって居ました。

さて、18:00の鮨「みつ川」までまだ時間もあるので、もう一度近江町市場に回り、家族への買い物をしたり、向かいのエムズのデパチカを見て浅田屋の女将が美味しいと教えてくれた四十萬谷(しじまや)のかぶら寿司も買い、皆で満足。再び「にしの茶屋街」にある「みつ川」に行きました。

忙しくて長い一日が終わり、きれいで静かなみつ川のカウンターで
「おまかせ」を心ゆくまで味わいました。

どれも本当に仕事が丁寧で工夫された握りの数々で、鮮魚の美味しい北陸の海の幸を堪能しつくしました。

再びタクシーで金沢駅に戻り、コインロッカーで荷物を出して、時間があったので東京まで戻る範子ちゃんと私は40分も早く東京駅に到着出来る「かがやき516号」に乗車変更して、軽井沢で降りて家族と合流するテケより一足早く車中の人となりました。いつもながらに一泊二日ながら内容の濃い旅でした。

その後ワンちゃんからメールを頂き、案じたほどでも無かったワンちゃんの一身上の結末に皆でホッと安堵しました。名カメラマン不在の旅で、ブログ係としては「無い無い」尽くしの旅行記で、お見せしたい名所の数々が抜けて残念でした。



旅程表
(範子ちゃんの力作)