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2012年9月21日金曜日

「岩手県三陸町」 東日本大震災の被災地を訪ねて 9月20日、21日

ここは岩手県大船渡の太平洋に面した、地域の人々が夏は海水浴を楽しんだ海水浴場でした。7000本あった松の防風林も、その先にあった砂浜もありません。頑丈な防波堤はズタズタに決壊し、コンクリートの塊となって、そこここに散乱しています。松林はそっくり津波に持って行かれ、砂浜は地盤沈下で海に沈みました。
左から、小倉さん、私、加藤さん、角田さん。

3.11から一年半が経ち、草が生えて長閑な空き地に見えるけど、畑の向こうに続く道路は手前の砂利に見える橋の残骸と繋がって一本の道でした。道路がなくなったのです。

私達が立っているのがその橋の残された部分で、元は繋がった一本の道でした。

手が付かないまま草が生え、寸断されたままの道

ここは陸前高田市。テレビに何度も最大の被災地といて映し出された体育館。

三階建ての市役所。避難場所だった為、280余名の方が亡くなられた場所です。

内部は水の威力を見せつけています。

そして市役所の向かいの公民館。やはり180余名の犠牲者が出ました。

内部は完全に破壊されています。運良く生存出来た方は2~3人でした。

市役所、公民館があった陸前高田市の中心街が、この様に舗装道路だけを残し、1軒の家も残っていない見渡す限りの瓦礫の山。

一年半が経ち、一軒残らず流された住宅密集地の跡は草が生い茂り、街であった形跡は何もありません。

破壊された自動車の残骸も水の威力を物語っています。

こちらは釜石市。大きな船が津波に運ばれて街中にあります。

そして残っているのは立派な舗装道路だけで、人家は土台を残して根こそぎありません。

見渡す限り草に覆われた空き地ですが、道路の立派さから推測して下さい。人家の密集した街だったのです。

「また会」の秋の金比羅旅行の打合せの為、4人でタウン・ミーティングのスケジュールをメールですりあわせていたとき、加藤ワンちゃんから「9月20日に念願の被災地訪問に出掛けます」と耳より情報。私も、昨年の3月11日以来想像を絶する津波の被害に苦しまれている被災地の様子をテレビで見るに付け、実際にその恐ろしさを体感したいと訪ねる機会を捜していました。
すぐ電話をして同行を頼んだところ、行けることが具体化したら連絡するけど、インターネットで調べる限り、新宿からバスで8時間位揺られていくしか現地に行く交通手段がない、宿泊所もあるかどうか不明、とまだ手探り状態でした。

加藤さん曰く、被災地訪問は、音楽家 秦万里子さん(NHKで2年間「歌うコンシェルジュ」としてレギュラー出演)が提唱しているスマイル募金「ピアノ贈り隊」にピアノ2台分の募金が集まったので、被災地の中学校2校に贈呈に行く為との事。

スマイル募金「ピアノ贈り隊」 (クリックで拡大します)

行き先は岩手県大船渡市三陸町。岩手県の中で最も大きな津波被害に遭った陸前高田市、釜石市、気仙沼市等と隣接する太平洋に面した漁業の町です。交通手段が不明というのは、東北新幹線で一ノ関、或いは水沢江刺駅まで来ても、そこから太平洋岸に位置する町までの大船渡鉄道が未だ被害が大きすぎて復旧していない為です。




秦万里子さんの音楽活動をプロデュースしているNYパワーハウスの社長、中村裕子さんが、もう何台もピアノを被災地に贈呈しているので、現地に情報網を持っていらして、交通手段と宿を確保して下さったお陰で、私達は予定通り9月20日、東京駅から東北新幹線で大船渡まで行く事が出来ました。

被災地訪問のスケジュールは以下の通りです。

9月20日(木曜日)

8:45
品川駅に集合。3時間余りの新幹線車中で済ませる昼食のお弁当をエキュートで購入。
メンバーは加藤、角田、小倉のピアノを一台大船渡第一中学校に贈る「チャリマ」の代表3人と、飛び入りの私。小倉以外は聖心女子大学の同級生(16回卒)。小倉は下級生。そしてNYパワーハウスの社長 中村裕子さんも10歳年下の同窓生で、その御縁で「チャリマ」はピアノ贈り隊活動に加わりました。

9:40
東京駅より東北新幹線 やまびこ55号で水沢江刺駅へ。

12:24
水沢江刺駅着。

秦万里子さん一行(中村社長、中川専務、スマイル募金事務局の野口さん、竹村さん)と水沢江刺駅で合流。自己紹介。

東北新幹線の水沢江刺駅

そこから9人乗りのジャンボタクシー(マイクロバスですね)で大船渡市まで行きます。

14:30 三陸町立の生徒数30人の吉浜中学校に到着。

過疎の学校ですが、環境はのどかで高台にポツリと建っていました。

本日ここでTBCラジオ「東北希望コンサート」の収録が行われます。

今回の被災地訪問では、2台のピアノがこの吉浜中学校と大船渡第一中学校にそれぞれ1台ずつ贈呈され、秦さんがそのピアノで被災した子供達を勇気付け、希望を与える音楽の楽しさを味わってもらうコンサートを開きます。ただピアノを贈るだけでなく、このコンサート付き、という秦さん達のボランティア活動が素晴らしいのです。

学校側が用意した「Welcome 秦 万里子さん」の横断ポスター

東北希望コンサート 表紙

東北希望コンサート 裏面のコンサートの説明

秦万里子さん一行がリハーサルをしている間に、吉浜中学校の村上洋子校長が私達4人に「是非見せたいものがある」と近隣を案内して下さいました。

これは明治43年、三陸町を襲った大津波で亡くなられた、約200名の方の名を刻んだ石碑です。
案内して下さった村上校長先生です。

「嗚呼惨哉海嘯」と刻まれています。こうして先人が大津波の悲惨さを後世に残していたので、三陸町の人々は津波の恐ろしさをよく知っていて、あの3月11日にも津波が来たら高台に逃げる心構えがあったのです。大津波は昭和2年にもあったそうですし、チリ地震の時も襲ってきたそうです。

しかし、あの3.11津波は、度々津波に襲われた経験のある三陸町の人々にとっても想像を超える大きさ、高さで、過去の津波が襲った地点より高い場所に行かなかった人々が命を落としました。

村上先生は、当時東釜石中学校の副校長で、想像を超える津波が襲った時、生徒を引率して高台へ、高台へと逃げたので、1人の犠牲者も出さなかった沈着な教師としてテレビで紹介されていらっしゃいましたが、それはこういう先達の教えが残っている土地に育ったお陰、と言うことを私達に知らせたかったのでしょう。先生御自身はずっと学校に居たので、その間、自分の家と家に残した犬は津波に飲み込まれてしまいました。今も仮設住宅での御生活です。

17:00から、いよいよ吉浜中学校講堂で「東北希望コンサート」は岩手放送の藤岡美智子アナウンサーの司会で始まりました。

寄贈されたグランドピアノを弾きながら自作の歌を歌う秦万里子さん。

テレビでお馴染みなので御存知の顔ですよね。

寄贈者の中に、私の自宅を設計して下さった「中川善仁」先生のお名前のある事にビックリ!
奥様が秦万里子さんの音楽のコーラス隊を2年ぐらいなさっていて、世界各地にも行らしていらっしゃったのです!

フィナーレは感謝の気持ちを込めて、吉浜中学校の生徒さんがコーラスを披露して下さいました。

大きな被害に遭っても、くじけず、明るく、生徒も先生も全員日本中からの支援に感謝しながら明日への希望を強く持って生きていらっしゃるのには本当に驚きました!

20:00
大船渡市内の居酒屋さんで、今日の吉浜中学校と明日ピアノを贈呈に向かう大船渡第一中学校の先生方が合同で秦さん一行9名との懇親会を開いて下さいました。ラジオの収録があったので、インタビューやサイン会もあり、開始が遅くなりました。

会場の「あらき」。この店も津波に流され、一年経ってこの違う場所に移転してオープンしました。

左側が2つの中学校の先生方、右側が秦さん一行9名の私達。

先生方1人1人が被災した時の様子を語って下さり、家を流され、今も仮設住宅の生活の方や、家族を亡くされた方等、大きな被災に遭われた方々ばかりなのに、皆さんこうして明るく前向きで、日本の将来を信じていらっしゃいました。
そのポジティブなパワーこそ、子供達の指導者に相応しい!と感動しました。

却って東京に生活している方が、全てに閉塞感があって、日本の未来を憂いて暗いのは何故でしょう?と考えさせられました。日本各地から今もこうして訪ねてくれる同胞の暖かさを現地の方々は大変喜んでいらっしゃいました。常に「感謝」を忘れない方々でした。

宿泊は「福祉の里」という施設でしたが、御覧の様に広く清潔で気持ちの良い宿泊所でした。65歳以上には1泊¥1650(朝食付き!)には一同ビックリ!学生達も利用する宿泊所との事でしたが、奈良県の民営のビジネスホテルより居心地良く、一同感激。l懇親会が遅くスタートしたので、10時P.M.の門限に遅れましたが、お風呂にも入る事が出来ました。ここが満室だった場合は第一中学校の校庭に建つ仮設避難所に宿泊の予定だったそうです。

翌9月21日 朝10:00に「福祉の里」に一泊した秦さん一行9人を大船渡第一中学校の先生方が2台の車で迎えに来て下さいました。いよいよ私の友人達チャリマが募ったお金で購入したピアノをこの中学校の2年生に贈呈するセレモニー、及び秦さんのコンサートが行われます。

当日のスケジュールは

10:15
大船渡第一中学校着(この学校は歌手の新沼謙治の出身校との事)

10:45
ピアノ贈呈式

11:00
コンサート開演

12:30
コンサート終了

12:45
学校発

16:50
一ノ関発新幹線で帰京


校長応接室に通され、石山校長先生に御挨拶。

石山校長先生が3.11の日の様子、そしてその後のこの一年について、丁寧に説明をして下さいました。

それによると、学校自体は被災に遭わなかったけれど、被災に遭った学校の生徒を受け入れ、現在は何らかの被災に遭った生徒(両親、家族、家などを無くした等々)40%、被災に遭わなかった生徒60%の混合の為、見えない心理的ギャップに先生方が非常に気を遣っている様子等、又、被災に遭わなかったが為に、全国から寄せられる、おびただしい善意の物品等を受け取り、生徒等に分ける時、受け取る生徒達の複雑な気持ちも教育上どの様にこの矛盾点(自分達は受け取るべき立場に無い)に対し、納得させられる説明をして行けば良いのか等、私達も話を伺うと、やはり経験しなければわからない被災地の難しさを改めて感じました。


校長室には生徒の手で作られた、復興への前向きな姿のポスターが貼られて、見る私達の胸を熱くしました。

このスローガンもこの写真も、皆生徒達の自主活動の一環です。

これもそうです。

これもその一枚です。

校長室には、300名の生徒数ですが、スポーツにも頑張ってきたトロフィーが沢山ありました。目標を掲げて先生と生徒達は一丸となってずっと学校生活を楽しんできたのでしょう。

さて、中学2年生にピアノを贈る贈呈式が教室の中で始まりました。

贈呈者の挨拶とチャリマ代表として、我らが加藤史子さんが今までの募金の経緯を説明。

引き続き、秦万里子さんが贈呈したピアノを弾き語りながら、生徒達が今後このピアノを有効に使って音楽の楽しさ、音楽がもたらす心の癒しを具現して見せてくれました。

生徒達も秦さんの伴奏でコーラスを披露。

ピアノの側面にはスマイル募金の「ピアノ贈り隊」のロゴと「チャリマ」の文字が金地で美しく刻まれています。

コンサート終演後、「ピアノ贈り隊」発案者のNYパワーハウスの中村社長(ピンクのポロシャツ)、そしてピアノが必要と申し出た大船渡第一中学校の音楽の先生(後列右端)、チャリマの3人(後列左)、私、スマイル募金の野口さん、竹村さん(黄緑のポロシャツ)と贈呈式の進行係の2年の皆さんでの記念撮影。

会場の教室の黒板には、秦万里子さん一行の歓迎の文字が。先生と生徒達はこの日の為に入念な準備とコーラスの練習をして来られました。何をするにも先生と生徒が一丸となってやる、素晴らしい校風を滞在中ずっと身に感じて居ました。

この学校の校庭には現在もこうして仮設住宅がビッシリ建てられ、生徒達は校庭を使えません。

しかし、先生も生徒も明日の日本の明るい未来を信じて、本当に元気に前向きに学校生活を一生懸命楽しんでいます。給食は自分達で作るそうです。

そんな学校に、巨人軍の監督や選手も慰問に訪れた様です。(原監督の色紙)

左がチャリマのピアノを受け取られた石山校長。
右が中川善仁氏等のグランドピアノを受け取られた村上校長。

秦万里子さんが、各学年、各クラスの生徒に色紙を揮毫。

私達は16:51発の新幹線の時間まで、村上先生自らの御案内で冒頭の陸前高田市や釜石市の被災地を見て回りました。

途中昼食に立ち寄った陸前高田駅前で繁盛していた中華食堂の仮設店舗。クリーニング屋さんも理髪店も、市の設営した仮設店舗で力強く営業を再開していました。

その周囲に、所々にコンクリート造りの大きな建物が解体されずに放置されて、後の民家は取り壊されて、草生い茂る野原となっています。

一泊二日の駆け足の被災地訪問でしたが、2つの学校の先生方の体験談を伺って、東京では想像もしなかった岩手県の場合(各県によって事情は様々違っているそうです)の被災地の現状と被災された方々の思いを一部知る事が出来ました。それをまとめてみると、

(1) 復興は始まったばかりながら、当初思っていたよりずっと早いスピードで進んでいる(被災者の方の話)

(2) 家を無くしたり、家族、親戚、愛犬を無くしたりした方々が、「自分だけなら落ち込むけど周り全部がそうだから前向きなことしか考えない」と東京の人間の想像以上に逞しく物事を良い方へ、良い方へと考えている。

(3) 全国の方々の被災地に対する思いやりの心を日々嬉しく受け止めて感謝の心に満ちている。

(4) 閉塞状態の東京人と違って、全国の人々のこの優しい心に触れた為に、「日本も捨てた物じゃない」と未来に希望を持っている。

(5) 一年半が経過したが、被災地の人々は自分達に心を寄せてくれる方々のいる事をよすがに頑張っているから、「のど元はいつまでも過ぎないように」。機会があったら被災地を訪問して差し上げる事が大変大事な事、と思った。



以上、短い被災地訪問を綴ってみました。











































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