戻る

2012年6月21日木曜日

また会の旅 「熊野古道」 その1


今年はスピリチュアル・スポットを訪ねる癒しの旅が旅行目的の一番人気の様です。昨年の東日本大震災に続く原発事故、温暖化に因る地球環境の急激な変化、そして地球規模の経済の落ち込みが人の価値観を物欲から精神の癒しへと移しているのでしょう。ワンちゃん(加藤)が見つけた日経なんでもランキングの6月16日(土)の週はまさにパワースポット、癒しのスポットのランキングで、一位は「熊野古道」、3位は「伊勢神宮」とありました。私達4人組は1月に「お伊勢参り」を済ませ、5月15日・16日で熊野古道を歩きましたから、歳をとっても世の中のトレンドに敏感なセンスはまだまだ落ちていない様ですね~♪

江戸時代に日本中に大流行した「お伊勢参り」。又、平安時代に上皇・法皇が神の元への昇天を願ってはるばる京都御所から険しい道を歩く事自体が修験道である熊野三山を目指した参詣の道の「熊野古道」。伊勢神宮は天皇が参詣し、熊野三山は法皇、上皇が参詣しました。こちらは「蟻の行列」と言われたくらいに、途中神の元への昇天を願う一般庶民も次々と加わり1000人規模の大行列になったと古文書に書かれています。熊野三山への参詣の起点だった大阪淀川河口の渡辺津(窪津王子)から三山までのルートには熊野権現を祭祀した九十九の「王子」があって、参詣の行列はその1つ1つで奉納の為の催しをしながら巡って行ったそうです。「王子」とは熊野権現の子供という意味だそうですが…。



有楽町JTBトラベルゲートで旅のプランを相談中。全てはここから始まりました。2日間タクシー付き、JRは全てグリーン車利用の『お得』プランを探し出してくれた親切な山崎嬢と共に。

ホラ、見て!いつもの私達の歳相応の慎ましいジパング利用旅行と違って、最新のグリーン車ですから、個々の椅子に音響設備が付いている豪華さです!

私達の旅には、車内で食事を摂るのが「お約束」。テケは目をつぶっているのではありません。スマホを見ているのよ。

朝6:27品川発の早朝列車は、お客さん皆さん朝食を摂り、コーヒーを飲み、朝刊を読むリラックスムードが漂っています。私達が食べているのは、前日麻布『幸村』で作ってもらった料亭のおむすびです。

湘南組は5:10から活動しているのに元気で、おしゃべりしているアッという間に名古屋に着き、新幹線の隣の12番線から発車する紀勢線のグリーン車におさまりました。

ゴールデンウィークが終わった車内は人気がなく、「貸し切り」状態。景色も街並みから新緑したたる長閑(のどか)な紀伊半島の鄙びた農村地帯に変わります。


天気予報は雨。日本全国一の雨量で名高い「尾鷲」に停車した時は、昔学校で習った地理を思い出しました。「エーと、何先生だったかしらね?」

名古屋から新宮まで3時間13分の長い旅路ですから、車内販売のお兄さんを呼び止め、熱いコーヒーを注文。

愛想の良い販売員さんは、混んでいないので写真を撮ってくれました。

車窓には林業の盛んな三重県らしく沢山の山間も走りましたが、こういう河原も沢山走りました。去年9月に襲った台風の爪跡は甚大な被害の様子を今もなお語っています。

那智勝浦のひとつ手前の駅「新宮」に11:21着。これから2日間御世話になるタクシーの運転手さんが出迎えてくれました。

今日は忙しいスケジュール。早速予約してある語り部さんと落ち合う場所「大門坂」に向けて出発。まずは食堂で腹ごしらえ。車中のは朝食。これはこの後3時間歩く大辺路の前の昼食です。壁に『勝浦のまぐろ丼』とあるように、ここは和歌山の漁業の町なんですね。

何でもおかしい二十歳はとうに過ぎているのに、きつねうどんの油揚げ談義に一花咲かせて大笑い。竹馬の友はお箸が転げても話題に事欠きませんね~♪

さて、いよいよ2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年にこの一部がユネスコの世界遺産に登録された「熊野古道」のうち、本日は那智大社と那智の滝へ至る「大門坂」を起点にした大辺路(おおへち)の一部を語り部さんに案内されて歩きます。

「熊野古道」は熊野(本宮)大社と熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山を巡る5つの道(紀伊路、小辺路(70km)、中辺路、大辺路(120km)、伊勢路(160km))の事ですが、世界遺産には伊勢路は入っていません。「道」が世界遺産として登録された例は他にスペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」位で、稀な事だそうです。



今日の語り部さん(9人のお孫さんをお持ち!)に那智曼荼羅(まんだら)を見ながら奈良時代から平安時代に盛んに参詣の人々で賑わった熊野古道のルート説明を聞きました。

世界遺産登録される前(昭和59年12月)に建立された「熊野古道」標識。

その裏側。

世界遺産に登録されてから整備された大門坂。那智の滝(那智大社の御神体)へ至る那智大社への参道です。 



那智大社の一の鳥居。

熊野古道に入ったらすぐ、昔の人が着てお参りした貸衣装屋さんに出くわしました。昔はこんな格好で参詣したんですね。結構正装です。


入口に旅人の為に用意された竹の杖を各々持って、さぁ出発!

鎌倉時代に頼朝が整備した道。今日は雨で昔の極楽浄土への救いを求めて歩いた幽玄な修験道の雰囲気が良く感じられました。

両脇に植えられた杉の木立も、やはり鎌倉時代ですから、どれも樹齢800年の大木です。

中でも特に有名な「夫婦杉」。本当に驚くほどの大木です。

熊野三山に参詣する為の「熊野古道」の各ルートに九十九ある熊野権現を祭祀した「王子」。これは私達が初めて出くわした「多富気王子」。ここで人々は休憩を取りながら、色々の催事(相撲とか巫女の踊りとか)を奉納して過ごしました。

熊野古道は大半が道幅1m前後でとても狭く、多くは土の道でした。又、紀伊山地は年間を通じて雨量が多く、道路が傷みやすくなっていました。それを鎌倉時代に、那智大社に至る「大門坂」を起点にした海側から発する大辺路の一部を頼朝が石畳にして現在の形に整備しました。翌日私達が熊野本宮大社に向かって歩いた中辺路は土の道でした。

「熊野古道」の雰囲気を感じ取って下さい。熊野那智大社まではゆっくり見物しながら歩いて3時間の道程です。

此処には関所もあったんです。通行税を払えない人は、ここでお大尽の通るのを待って、通行税を恵んでもらいました。お大尽は来世の功徳になるから、と恵んだそうです。

やっと那智大社の入口近くまで登ってきました。ちゃんと記念撮影用のパネルがありました。

記念撮影が終わると、この赤い鳥居になります。ここからいよいよ今日の那智大社 及び 那智の滝、三重の塔、那智山青岸渡寺と言った、那智大社を囲む霊場となります。

熊野周辺は日本書紀にも登場する自然崇拝の地です。紀伊半島の中央部に位置する熊野周辺は、際立った高山はありませんが、どこまでも続く山々と谷に覆われていて、交通路を確保するには難しい土地です。

907年の宇多法皇が熊野行幸の最初と言われています。1090年の白河上皇の熊野行幸が熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけと言われていて、後白河上皇は33回も参詣されています。この後白河上皇の時代が、今のNHK大河「平清盛」の時代ですから、私は毎週楽しみにこの大河ドラマを観ています。かつて無い程視聴率が悪いと言われていますが、「篤姫」から「平清盛」までの4作の中では一番ドラマとしての出来は秀作だと思います。福山雅治で人気だった「龍馬伝」より作品としてはずっと重厚に出来ていると思うのですが、世間は食わず嫌いなのか本来のドラマらしいドラマよりノリの軽い、ストーリーだけ追う「お江」のようなお茶の間劇が好きなのでしょうか?

熊野大社は「八咫烏」と呼ばれる3本足の神のお使い、又、太陽の化身と考えられている烏がマスコットで、この地で産する碁石の元となる黒石で作ったものがお土産No1です。店主さんの説明に耳を傾ける私達。でも買ったのは黒石飴でした。

八咫烏は日本サッカー協会の創設に尽力した中村覚之介氏が那智勝浦出身だった為、この方に敬意を表して日本サッカー協会のシンボルマークとして使われていますし、熊野速玉大社は、サッカー日本ナショナルチームが国際試合に出陣する時、勝利の祈願をする神社でもあります。昨年女子ワールドカップに優勝した「なでしこジャパン」の面々、沢穂稀選手らもドイツに出発する前にこちらに参詣していました。

霧雨の中、那智大社本殿までは更に石段を登ります。

坂道が開けてそこに立派な那智大社社殿が現れました。

こらが大社を守る「八咫烏」。

那智大社には天皇陛下も皇太子殿下もご参詣になられたようです。記念の植樹がありました。

那智大社 全景

こちらは那智大社のすぐ隣にある那智山青岸渡寺。那智大社の壁や柱が紅殻色に対し、こちらは屋根は桧皮葺きで、神社ではなく仏寺だと分かります。

青岸渡寺は西国三十三番観音霊場の第一番札所です。1600年前にインドの僧 裸形上人の開基と伝えられています。

こちらが那智大社の「御神体」の「那智の瀧」。瀧口に飾られている注連縄も霧に隠れています。

翌日ピーカンの晴天になったので再び訪れた「那智の瀧」。

「那智の瀧」の横には美しい三重塔があります。

その塔の最上階から記念撮影した那智の瀧。

上の写真を撮ってくれたカメラマン氏に敬意を表して。

もう一度、前日の瀧。瀧の最前線からの撮影。










0 件のコメント:

コメントを投稿