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2012年6月19日火曜日

また会の旅 「熊野古道」 その3

熊野三山を巡る今回の旅で、最後に訪れたのが熊野速玉大社となりましたが、実は私達の初日に降り立った駅「新宮」に最も近い神社なのです。「新宮」と言う駅名は熊野速玉大社の近くにある神倉神社が「元宮」と称されたのに対して、熊野速玉大社は「新宮」と呼ばれていた為だそうです。

二日間、私達と荷物を載せて世界遺産「熊野巡り」を手助けしてくれたタクシーの運転手さんが、最後に「是非見に行って下さい」と案内して下さったのが「神倉神社」(元宮)でした。その険しい石段の前での記念撮影。

この時、私達は「神倉神社」の事を何も知らなくて、頂上まで538段の険しい石段を前にして「無理!」と登りませんでしたが、実はこの頂上が「神倉山」と呼ばれる霊場で、御神体は「コトビキ岩」という巨岩。その巨岩の窪みは熊野の神々が降臨した最も大切な神域として古代の祭祀遺跡だったのです。

残念に思ってもあとの祭…。古代から踏まれ続けた石段の不揃いで高低もバラバラの険しい参道は頂上まで20分。これを年に一度の火祭りの行事の時は、たいまつを持った男衆が一気に頂上から駆け降りてくるそうで、その勇壮な祭を見物に全国から沢山の人々が訪れるそうです。運転手さんは地元の方なので、それが何より自慢でした!
神倉山が別名「権現山」と呼ばれ、神々が降臨した神体山として崇められて来た由来が書かれています。その左の写真が「火祭り」当日の様子を撮したものです。(クリックで大きくなります。)

さて、神倉神社のすぐ側にある熊野速玉大社の表の入口には、熊野大社の御神木「梛(なぎ)の大樹」がありました。
   
なるほど!ものすごく大きい「大樹」です。国指定天然記念物になっています。これ程大きい梛の木は滅多に無いそうです。l

葉の特徴は、木の葉なのに中心に葉脈がなく、笹の葉の葉に縦の筋があるだけなので、横には千切れないそうです。 


そして小指の爪位の大きさの実を付けるので、その実で作る「なぎ人形」がここのお土産です。

神社ですから、いつもの通り手水舎で口と手を清めます。

こちらが速玉大社の本殿。

本殿の前で最後の記念撮影。

御神木の「梛(なぎ)」が「凪(なぎ)」に通じる事から、海上交通の安全の神様として、漁業繁栄の守護神として崇められています。

又、梛(なぎ)の葉が千切れないので、絆が切れない、良縁結びの神様としても人気の様です。

予期せず、この速玉神社の一隅に文化勲章受章者で日本文壇の重鎮、佐藤春夫氏の元、東京都文京区関口にあった旧宅が移築されて、佐藤春夫記念館として一般公開されていました。

これがその旧宅の全景です。文化学院創立者 西村伊作氏の弟大石七分氏の設計と言われています。佐藤春夫氏は昭和11年に文化学院の文学部長でした。ちなみにこの家は昭和2年に完成しました。

こちらは佐藤春夫邸のアーチ型の門。こちらに移築されたのは佐藤氏が新宮の出身で、ふるさとをこよなく愛した「望郷詩人」と呼ばれるほどだったからです。文化勲章を受賞して新宮市の名誉市民第一号であり、この記念館は新宮市立記念館です。新宮の事を「空青し。山青し。海青し。」と詠んだそうです。

門を入ってすぐに建っている「記念館の案内板。

増築されたサンルーム上の部分。

階段も取り付けて、晩年の春夫氏はこのガラス屋根で明るい2階の増築部分を大変気に入っていた由。

佐藤春夫記念館には、佐藤春夫を文壇に推挙してくれた谷崎潤一郎氏との交遊や、その為に谷崎氏の前夫人(後に春夫氏の夫人」との関係や、その後の三人の複雑な人間関係等、大正から昭和にかけて芥川龍之介も登場する、かなり当時の新聞を賑わした数々の出来事を物語る資料、史料も展示されていて興味深い場所となっています。

列車の時間になったので2日間乗せて頂いたタクシーで無事に昨日到着した新宮駅に戻り、駅前で、車内で頂く夕食のお弁当を調達して一泊二日の内容の濃い「熊野古道」の旅を終えました!

忙しい旅だったと言えば、確かに沢山の物を見、沢山の事を体感し、忙しい旅でしたが、駆け足で巡ったと感じるほどスルリと名所だけを垣間見た訳でなく、充分に、いにしえの人々の「熊野」を巡礼した様子に思いを馳せる事が出来た旅、自然崇拝の霊場である「熊野」を充分感じる事が出来た旅だったと思います。これも良き友、良き道連れが居ればこそ! 感謝です…。

































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